稽古日誌

剣道時代に「涵養」という言葉に感銘を受けた話

「さんずい 函 漢字」で検索しました。

 

どうも、ちょんです。

 

 

剣道時代2017年12月号の話です。角正武先生が執筆されているコラム「修養としての剣道」に「礼法とは」なにかを記されており、次のような一文がありました。

武士の表芸であって剣術修養にあたっても、道徳性の涵養と相俟ってこそはじめて治世の責任を全うすべき武士の素養を礎となると考えられてきたものと理解できます。

 

道徳性の涵養?はて、聞いたことが無い。読み方もわからない。

 

ということで検索したところ、これで「かんよう」と読むそうです。川の水がゆっくりゆっくりと土にしみ込んだ結果、地下水が出来ること。転じて、無理をせずゆっくりと養い、育てることを意味しているそうです。

 

 

 

わたし、座右の銘を仕事と人生で一個ずつ掲げていまして。

 

 

仕事の方は「清濁併せ呑まない」。

綺麗な水ばかりを飲むことは出来ず、泥水=苦々しいことも受け入れることが必要、という意味ですが、これはどこで苦労するかの違いだと思うんです。わたしは、綺麗な水と泥水をいっぺんに飲む苦労をするくらいなら、泥水を綺麗な水に変換する装置を作る苦労をして、完成後は一生綺麗な水を飲み続けることを選びます。

 

 

 

そして人生は「自然に生きる」。

社会人経験の中で、生き方を考えさせられた時がありまして。物事って不自然な力が働き続けた結果が故障してしまう原因につながると思っています。我田引水とはちょっと違いますけど、川の流れには逆らわず、川の流れから外れずにいた方が満足いく結果になるのではないかと思っているんです。

 

それが望んだ結果ではないのかもしれませんが、予期しない決着の方が人生は楽しめるのでは、とわたしは思っています。

 

これは達観してるとかではないですよ。努力が必要な時は思いっきり努力をしたいし、その努力が何に結びつくかわからない時はやっぱり力が入らないですよね。なにかこう、人生の流れに沿って生きていくと見えてくる〝機会〟を捉えつづける。その連続の先にきっと良いことが待っている。そんな解釈です。

 

人生は先々の先、ということですね。